あれから、8年近くもの月日が流れました。
現在、実家のアパートには母と妹が2人で住んでおり、2つ上の姉は実家からだいぶ離れた場所で就職をしました。父は未だ単身赴任で、8年前と変わらず全国を転々としています。私はというと、隣の県の大学に通いつつ一人暮らしをしています。
去年の冬に母から、実家に顔を出しなさいと、久しぶりに連絡がありました。私はとにかく家に帰るのが嫌で仕方が無く、せっかくの休日をあのおぞましい場所で過ごして堪るものかと、母の誘いを毎年頑なに断っていました。
しかし今年は、滅多に戻ることのない父と姉が帰ってくるそうで、卒論を間近に控えた時期にも関わらず、しぶしぶ帰省する事にしました。
あんな恐ろしい目にあった家に再び戻る事に抵抗は十分にあったのですが、実はそれよりも怖いと思う事がありました。母と対面するのが何よりも怖かったのです。
かつて母と電話越しで会話をした時、母が明らかにおかしな様子だったのを今でも鮮明に覚えています。母の声なのに、母じゃないモノと会話をしていたであろうあの瞬間。今でも忘れられません。
……とはいえ、全ては過去のこと。アレを見た後でも、私の身の周りでは変わった事はなく、幸運なことに家族も病気をしたりケガしたりという事もありませんでした。
父も母も、姉も妹も元気そうにしているし、ここ8年で変わった事は特に無いと聞いていました。最早あの「家族がお終い」という呪いの言葉だけではなく、白い着物姿の女を見たことさえも、夢か幻だったのではないかと思い始めていました。耳にこびりついているあのイヤな金属音だって、いつかきっと忘れていくに違いありません。
帰省を避けていた本当の理由を母に悟られぬよう、実家にいる間は明るく振舞おうと心に決めて、私は実家に向かいました――。
「絶対に大丈夫!!」
そう自分に強く言い聞かせて――。
家に帰った私はホッ安心しました。父も母も、姉も妹も元気そうで、久しぶりに帰省した私に卒業は大丈夫なのか、彼氏はできたのか、などお約束のお節介を焼いてくるのでした。
あれほど気にしていた母にも変わった様子はなく、今はホテルの清掃業のパートで日々忙しいとの事でした。
しかし姉に話しかける事だけはやはり気まずい。8年前のあの出来事から、姉は今日まで徹底的に私を無視し続けてきたからです。幼い時、私があの真っ暗な居間で大声を上げた事が絶交のきっかけに違いなく、姉の冷たさは尋常なものではありませんでした。
そんな姉が発した言葉に、私は思わず耳を疑いました――。
「あんたのこと、ずっと無視しててごめんね」
まさか8年間ずっと無視されていた姉から、それに対する謝罪の言葉があるとは思いませんでした――。
「私こそごめんなさい。でも突然どうしたの?もしかして何かあった?」
姉はどこかぎこちない表情を浮かべて、昔使っていた姉と私の共用部屋に連れて行ってから、ひっそりと話し始めました――。
「あたしの家でね、あの音が聞こえた」
あの音。その言葉を聞いただけで、私の背筋をヒンヤリとしたものが伝うのを感じました。姉はそんな私の様子を確認するように、さらに話を続けます――。
「あの日。夜9時頃に仕事から帰ってきて、部屋でテレビ観てたんだ。そしたら風呂場の方でね……カン、カンって。
昔あんたと一緒にその音を聞いたの覚えてたから、すぐに分かったよ。これはヤバイってさ。
同僚が近所に住んでたから、すぐに家を出てそこに向かったの。その同僚の家でさっきの話をしてたら、また風呂場のほうからカン、カンって。
鉄を叩く様な金属音だった。2人共パニックになっちゃって、部屋を出て警察呼んだんだ。結局風呂場には何も無かったし、一応部屋も調べてもらったけど変わった事は何も無かった」
姉の恐怖を語る口ぶりは、8年前の忌まわしい記憶を完全に蘇らせました――。
「カン、カン」
真っ暗な居間。テーブルに座るあの女。何とも不気味な金属音。振り向く女。そしてあのおぞましい顔。
何の前触れもなく聞こえるあの音は、自分を一時期、極度の金属音恐怖症にさせるほど恐ろしいモノでした。
音楽が流れる場所ではカウベルや鈴のような音が鳴らないかとヒヤヒヤし、台所のフライパンや鍋の発する金属音に耳を塞いで怯え、外出先では踏み切りのある道路を避けねば移動もままならない……。
ただ、姉の話には8年前とは違う点がありました。白い着物姿の女を見ていなければ、声も聞いていないと。聞こえたのは――。
「カン、カン」
という不気味な金属音だけ。
しかも場所は風呂場。私が知るのは、居間のテーブルの上にアレが正座している姿。しかし何故、風呂場になんて……。
それは本当にアレの音だったの?……そう姉に問い掛けようとした時、姉の目からボロボロと涙が溢れだしました。
突然の事に私はうろたえながらも、姉をなだめようとしました――。
「まだアレだって決まった訳じゃ……」
すると姉は泣き顔のままキッと私を睨みつけ――。
「あんた、お母さんの事。妹から聞いてないの?」
凄みのある声で迫ってきました。
お母さんの事?話が見えず、当惑しました。今さっき家族みんなで母の作ったビーフシチューに舌鼓を打ったばかり。母の様子も何もおかしい事なんてなかったし、妹も普段通りだったように見えました。
焦りを隠せない私に対し、姉は涙を拭いながら続けました――。
「時々、夜中にこっそり家を出てくんだって。詳しい事は妹に聞いて」
そう言われた瞬間ただならぬ予感が走って、私はすぐに妹の部屋に向かいました――。
「お母さんが夜に外に出てるって、どういう事?」
「あぁ……、お姉に聞いたんだね。本当の事だよ。何なら一緒に見る?」
息が止まる様な、激しい胸騒ぎが止まりません――。
その夜、私は妹の部屋でベッドの隣に布団を敷き、ぼんやりと天井を眺めながら時間が経つのを待っていました。
妹によると、母が家を出る時間は大体決まっていて、深夜1時過ぎに家を出て、10分程度で帰ってくるとの事でした。この事に気が付いた妹は当初、気分転換にタバコでも吸いに行っているのかと思っていたらしく、特に気に留めていなかったようです。
しかし、雪が降るほどに寒くなってからも母の外出は毎日続いたそうで、その行動の理由を母に聞いてみたそうです。すると――。
「何のこと?」
とぼけている様子もなく、自分が深夜に外出していること自体を、全く自覚していない様子だったと言うのです。不審に思った妹は、ある夜に母の後をこっそりと尾けたのでした――。
「そろそろだよ」
妹が言うと、私はスッと耳を澄ませました。すると間もなく、ドア一枚を隔てた廊下の向こうで人の気配がするのです――。
「ガサ……ガサ……」
玄関辺りで、おそらくブーツを履いているのだろうという物音が聞こえ、そのまま――。
「キイ……」
ドアの軋む音と共に、コツコツコツという足音。間違いなく今、母が外に出た様です。
私と妹は顔を見合わせ、なるべく物音を立てぬ様ドアを静かに開けて、忍足で玄関に向かいました。カギは掛かっておらず、妹は注意深くドアノブを握って、そっとドアを開けました――。
「お母さん何処に行ったの?」
そう妹に聞くと、驚く事にすぐ近くにいると言う。嫌な予感がジワジワと燻ぶり始めました。
真っ暗な路地。街灯と月明かりだけが頼りでした。
家から進む事およそ100m。路地をボンヤリと照らす街灯の下に母を見付けました。そして私は母の姿を見て、思わず唖然としてしまいました。
電柱の周りをグルグル回っている。散歩の様なゆったりと歩くペースではなく、かなり速いはや歩きで。もしくは駆け足の様なもの凄いスピードでグルグル回っている。一心不乱にグルグルグルグルグルグルグルグル周り続けている……。
昼間に見た朗らかで優しげな母の表情は今や何処にも無く、遠目に見ても判る様な鬼の形相。その面構えはまさに般若のごとし。あまりの恐ろしさに息もつかずに絶句していると――。
「もう帰ろう」
妹は静かに促してきました――。
「たぶん、あと10分くらい続くから……。あれ」
と一言付け加えたのでした。
妹よりも一足早く家に帰ってきた私は、母の異常な姿を目の当たりにして、ようやく事の重大さに気付き始めました――。
「あなたも……、あなたの家族もお終いね。ふふふ……」
今頃になってあの女の、おぞましい言葉が頭の中で繰り返されました。いかんともしがたい焦燥感を感じながら、居間の電気を点けようと壁を探りました。
大体この辺にスイッチがあるはず……。そう思いながら手探りをしていると、指先に角ばったプラスチックの感触が伝わりました。それとほぼ同時に、真っ暗闇に支配された空間の中から――。
「カン、カン」
あの音。シーンと静まり返った居間の中に響き渡りました。
あっ!と思っても時は既に遅く、私は壁のスイッチを押してしまったのです。白い室内灯でパッと照らし出される居間。強い光に目が慣れず、私は反射的に目を細めました。その視線の先に、8年の時を超えて再び映し出されたのです。
テーブルの上。白い着物を着た女が座っている。こちら側に背を向けているので、顔までは分からない。
現実感がまるで無い、冷静な思考が出来ませんでした。テーブルの上に見知らぬ着物姿の女が正座しているだけでも異常な光景なのに、点灯したばかりの室内灯に順応しきれていない私の目には、居間という空間全体が奇妙なものに感じられました。
嫌な汗がドバッと吹き出してきたのを、体に張り付く衣服によって肌で感じていました。
何秒、いや何分もそうしていたか分かりません。私の指はそっとスイッチを押し込み、パチンという小気味良い音と共に、再び居間は真っ暗な闇に飲み込まれました。よもや何も見えない。そして丁度その直後、玄関からガチャリとドアの開く音がしました。
私の視線は真っ暗な居間に釘付けで、テーブルの上にはまだあの女がいるような気がしてしょうがありません。
その一方で、後ろの玄関ではガサガサという靴を脱ぐような音に続いて、木造の床を踏み込んで歩く時の独特の軋む音――。
「ギッ……ギッ……」
私は、後ろを振り向くことが出来ませんでした。これはきっと妹が戻って来た音だ。そうに違いない。妹に決まっているはずなのに、どうしても怖くて後ろを振り向けない。見れないのです。
正直私は、気付いていたのです。
気配というか、勘というか、それ自体はあやふやなモノでした。しかし後ろから近付いて来るのは、おそらく妹ではなかったと。
形容し難いほどおぞましい感覚、威圧感、オーラの様なものが、ギッギッと床が軋む音と共に、段々と強くなっていくのです。
そして次に、真っ暗な居間の真ん中辺り、テーブルが置かれている辺りから再び――。
「カン、カン」
恐怖感に耐えきれず、次第に意識が遠のいていきました。
意識が途切れてしまう寸前。私のすぐ後ろにまで近づいていた何者かの手が、私の肩をガッと強く掴んできたのを確かに感じたのです――。
翌日、私は姉の部屋で目を覚ましました。
父、姉、妹には、あの真っ暗な居間で私の肩を掴んだという事は一切していないと断言され、しかも妹が帰ってきた時、母はまだ帰宅していなかったとも言われました。妹によると、靴だけではなく、母の寝室も確認したから絶対に確かだとの事でした。
その後また時間が経ち、妹と連絡を取った際に聞かされましたが、母の異常な行動は今でもまだ続いているようです――。
「精神科にも相談したし、うちでお祓いだってしてもらった。不審者みたいに通報された事もあるからね」
後から知ったのですが、妹は既に姉から例の音やあの女の事、詳しい話を聞かされていたそうで、父には内緒にしながらも色々と試みていた様です。ですが、いずれも徒労に終わったとの事……。
そう。母の異常な行動が続いているのを見れば、効果が無いのは一目瞭然でした。
私にはもう分かっていました。あの女のせいだと。姉の家で鳴った音だって、あの夜の母の恐ろしい姿だって、全部あの女が原因なのだと。
そう思うと当たりようのない激しい怒りが込み上げてくる。
……でも。その怒り以上に、あの女が恐ろしくて堪りません。
今後、なるべく早いうちに父にすべてを打ち明けてみて、アパートを引き払うことを検討しています。
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